聖書のみことば
2022年8月
  8月7日 8月14日 8月21日 8月28日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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8月28日主日礼拝音声

 結婚という秘義
2022年8月第4主日礼拝 8月28日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/マルコによる福音書 第10章1〜12節

<1節>イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた。群衆がまた集まって来たので、イエスは再びいつものように教えておられた。<2節>ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。<3節>イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。<4節>彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。<5節>イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。<6節>しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。<7節>それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、<8節>二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。<9節>従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」<10節>家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。<11節>イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。<12節>夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」

 ただいまマルコによる福音書10章1節から12節までをご一緒にお聞きしました。1節に「イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた。群衆がまた集まって来たので、イエスは再びいつものように教えておられた」とあります。何気ない調子で記されているのですが、ここには主イエスの伝道の歩みの中での一つの区切りがあります。
「主イエスがそこを立ち去った」と言われているのは、カファルナウムのペトロの家を出発したということを述べているのですが、実はこの時、主イエスはもう二度とこの家に戻ることがないと承知しておられました。ここに込められているニュアンスを強調しながら訳すならば、「主イエスは立ち上がり、ユダヤを目指してヨルダン川沿いの道へと出て行った」となるでしょう。けれども、戻ることがないと思っているのは主イエスだけです。弟子たちも群衆も、主イエスがこれから出かけて行った先のエルサレムでどのようなことが待ち受けているのか、知る由はありません。エルサレムでの御受難は主イエスだけがご存知でいらっしゃいます。
 この日の旅立ちは、主イエスにとってはここから十字架へと向かっていく旅路の始まりでした。十字架に向かって行く途中であっても、群衆は主イエスの姿を見かけると、いつものように集まってきます。そしてまた主イエスも、いつものように人々を教えられます。弟子たちも群衆も、こういう生活がこの先もずっと続くのだと思っていました。未来永劫とまでは言えないとしても、少なくとも当面はこのままの生活が続いていくだろうと考えていたと思われます。

 マルコによる福音書10章では、カファルナウムを出立した主イエスの最後の旅の道中に起こったことが語られています。そして11章になると、主イエスはエルサレムに到着されます。今日の箇所から始まって10章半ばまでのところには、主イエスがこの最後の旅の道中で弟子たちや群衆に教えてくださった事柄が四つ語られます。
 まず今日の箇所では、離婚ということが話題になっていますが、そのことをめぐって「結婚」の事柄が教えられます。そして次には「子供たち」のことが教えられます。三番目には「世の富」について教えられ、最後には何もかも捨てて従ったと主張するペトロと弟子たちに主イエスが諭しの言葉を与えるというふうに続いていきます。今日はその最初のところです。

 2節に「ファリサイ派の人々が近寄って、『夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか』と尋ねた。イエスを試そうとしたのである」とあります。1節に「群衆が集まって来た」とありましたが、その群衆の中には様々な人がいました。主イエスによって病気を癒されたい、悩みごとや問題を解決してもらいたい、そう願っている人たちがいたかもしれませんし、またそういう癒しが行われる様子を見物したいと思っている人もいたかもしれません。ところがそういう人々に紛れるようにして、ファリサイ派の人々も主イエスに近づいていたと語られています。
 ファリサイ派の人々は主イエスを試そうとして、離婚について、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねました。この問いに対する主イエスの答えは明確で、9節「従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」とあるように、主イエスは離縁について、はっきり反対だという姿勢を持っておられました。ファリサイ派の人々は、恐らく主イエスがこういう返事をするだろうと予測して、問いを投げかけています。
 けれども、当時主イエスがこの問いに、即座にはっきり答えるということには、大変な危険が伴いました。どうしてかと言うと、それは、この土地を治めていた領主がヘロデ・アンティパスという人物であって、この領主が先に妻であった女性を離縁するということが起こっていたためです。つまり、主イエスが離縁ということについて、「それはユダヤの律法に照らして正しくない」と反対をするということは、直接に領主の名前を出して非難しているわけではないとしても、少なくとも領主のしていることについて、「それは誤りだ」と言って批判するということだったのです。主イエスが若かった頃、主イエスに洗礼を施した洗礼者ヨハネは、まさしくこの領主の離縁、そしてその後の再婚の出来事について、「それは正しくない」と律法に照らして真っ当な批判をしたために捕らえられ、獄に繋がれ、そして最後には首を切られて処刑されました。

 ファリサイ派の人々がこの日主イエスに投げかけた問いは、このように一つの罠となり得る問いでした。ファリサイ派の人々は主イエスを試みようとしてこう尋ねたと言われていますから、その内に主イエスに対する悪意を秘めていたことは間違いありません。そしてこの悪意というのは、私たちが思うよりもずっと深く、激しいものでした。
 ファリサイ派の人々が主イエスに対してどんなに激しく敵意を燃やしていたかということは、マルコによる福音書3章6節を見ると様子が分かります。そこには「ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた」とあります。ファリサイ派の人々は主イエスを殺してしまおうと思うくらい激しく主イエスのことを憎んでいました。そしてこの記事によれば、ファリサイ派は陰でヘロデ派と手を結んでいたと言われています。元来の政治的な立場から言えば、ファリサイ派とヘロデ派が互いに手を結ぶなどとは考えられないことです。ファリサイ派の人々は、どんな場合にも律法を厳格に守るべきだと教え、考えていました。一方ヘロデ派の人たちは、当時の権力者であったヘロデ王家の領主たちに繋がる人たちですから、領主たちにおもねり、そのおこぼれに与って利益を得ようとする、ご都合主義の人たちでした。必ず聖書の律法に従わなければと思っている人と、利益のためなら場合によってはどんなことでも行ってよいと思っている人たちですから、ファリサイ派とヘロデ派は水と油のような関係で、本来は決して手を結ぶはずがない人たちなのです。
 ところがこの両者は、主イエスが目障りでこれを除いてしまいたいと思う一点では、手を携えることができたのです。ファリサイ派の人々は、主イエスが離婚に反対しているという、はっきりした言質をとれば、そのままヘロデ派の人たちにその発言を通報すれば良かったのです。群衆が大勢周りにいて主イエスの言葉を聞いていますから、主イエスの発言が離婚について否定的であると聞く人はファリサイ派の人たち以外でも大勢生まれることになります。そうすると、ヘロデ派の人たちに主イエスの言葉を伝え、ヘロデ派の人たちが主イエスを捕らえに来る、その場面で、取り巻いている群衆はファリサイ派の人々に代わって、主イエスが何を言ったかということを証言してくれるに違いありません。ファリサイ派の人々は、主イエスが捕らえられる場面では口を拭って知らんぷりを決め込んでいても、群衆の言葉によって主イエスは捕らえられることになります。そしてヘロデの牢獄に幽閉され、処罰されていくことになります。ファリサイ派の人々が試みの問いをぶつけたと言われているのは、そういうことなのです。激しい悪意をもって、場合によっては主イエスが捕らえられ殺されても構わないという思いを持って、彼らは主イエスに問いをぶつけました。

 ところで、主イエス・キリストというお方は人間の心を御覧になることができる方です。ファリサイ派の人々がいかにも敬虔そうに見せかけて、「律法に照らして、これは正しいのでしょうか」と、義憤に駆られているような問いをしますが、その心の底に悪意があるということを立ちどころに見抜かれました。
 主イエスはこの時点ではもう、エルサレムの十字架に向かって歩み始めておられます。そして、過ぎ越しの祭りまでにエルサレムに着いていなければならないと思っておられます。ですから主イエスの行動プランからすると、今ここで逮捕されるわけにいきません。過ぎ越しの祭りに間に合うようにエルサレムに着いていなければなりませんから、主イエスはここで言質を取られるように、いきなり返事をすることなさいませんでした。主御自身がお答えになるのではなく、ファリサイ派の人々にその答えを語らせようとして、逆に質問をなさいました。3節に「イエスは、『モーセはあなたたちに何と命じたか』と問い返された」とあります。
 聞いていた群衆は、ただここでは律法についての議論が交わされているというくらいに聞いたかもしれません。しかし実際には、このやり取りには火花が散っているのです。一方は言質を取ろうとして、もう一方は取られないように注意深く語っています。
 ファリサイ派の人々は、離縁についての意見を主イエスに求めています。しかし離縁の前提には、当然のことですが、離縁する人とされる人が「結婚している」という事実があります。結婚していなければ離縁はあり得ません。ですから、離縁をどう思うかという問いは、実は「あなたは結婚の事柄をどう考えているのか」という問いと表裏の関係にあります。

 主イエスが離縁について反対なさるのは、結婚がそもそも神によって結び合わされた特別な間柄の出来事だからです。9節でおっしゃっておられるように、「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」のです。
 ここでは議論に上っていないことですが、実際の結婚生活においては、結婚した男女のいずれかが先に神の許に召されてしまい、もう一方の人が地上に残されるという場合もあり得ます。これはちょうど旧約聖書のルツ記に出てくるルツやナオミのような境遇です。その場合には、人間は自分の都合や考えで離れたわけではなく、神御自身がその人のベターハーフとされた人を取り去られたのですから、その人はもはや古い婚姻関係には縛られずに、再婚してもよいのです。あるいは不幸にして結婚生活を維持することができなくなってしまう事情があって別々の道に進まなければならないという時も、相手の人が天に召されるまで独身でいることが望ましいことではありますが、召されてしまえば、また自由になるのです。いずれにしても、離婚について考えるときには、その大元にある結婚の事柄をどう考えるかということが出発点になります。
 主イエスがファリサイ派の人々にお尋ねになった「モーセはあなたたちに何と命じたか」という問いは、「あなた自身は結婚のことをどう考えているのか」という問いなのです。

 ところがファリサイ派の人々は、この主イエスの問いかけから上手に身をかわして逃げようとします。ここで問題になっていることは「結婚をどう考えるか」という本質的なことではなくて、あくまでも離縁だけの問題であるかのように誤魔化そうとして、旧約聖書の中に記されている離縁の手続きについて教えている言葉だけを答えるのです。4節に「彼らは、『モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました』と言った」とあります。
 「離縁する際には、離縁状を書いて相手に手渡さなくてはならない」、これは手続きの話です。けれどもファリサイ派の人々が主イエスに尋ねたことは、「離縁したいけれど、どうしたらよいだろうか」という手続きのことではありませんでした。離縁という場合には難しい状況が必ず起こっているわけで、そういう個別の離縁の事柄について具体的にどうかと相談しているのではなく、ファリサイ派の人々が尋ねた事柄はあくまでも、「離縁が律法に照らして正しいかどうか」という、その是非です。結婚という事柄をどう考えるべきなのか、そしてその一方で離縁という現実に至ってしまう場合ついて、主イエスがどう考えるのか、基本的にどう考えるべきかという、考え方の筋道を問うような仕方で尋ねています。
 ファリサイ派の人たちは、上辺は大変敬虔そうに、「わたしたちには判断がつかないので、先生のお考えを伺いたいのです」という調子で尋ねていますが、実際には、どう考えるのが本筋なのか、彼らはファリサイ派であるだけによく分かっているのです。そして、自分たちが分かっていて主イエスも同じ答えをなさるに違いないと思って、その返事で言質を取ってヘロデ派の人たちに通報しようと思っている、そこに彼らの悪意があるのです。

 主イエスは、話を手続の事柄にずらして誤魔化そうとしているファリサイ派の人々の心の頑なさを悲しみながら、「モーセの律法の本筋は、手続きを踏んで離縁するようにと促しているのではなくて、結婚がそもそも神から与えられた特別な間柄だと教えている」と言われました。5節から8節に「イエスは言われた。『あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である』」とあります。人間の心が頑ななためにモーセが新たに書き添えなければならなかった掟と言われているのは、旧約聖書で言うならば申命記24章1節の言葉です。「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」とあります。この言葉が、ファリサイ派の人々が言い逃れに使おうとした元々の聖書の箇所です。
 この言葉はどういう意味合いの言葉かというと、古代の結婚生活の中で弱い立場に置かれがちな女性を守るために語られた掟だと言われています。今日でも結婚において男女が必ずしも平等ではないと言われますが、古代においては尚更でした。女性は自分の自由な意思で結婚できたわけではなく、はっきり言ってしまえば結婚させられたのですが、その嫁いだ先で唯一女性の立場を守るものが離縁状でした。この離縁状をひとたび女性の手に渡せば、男性側は離縁を破棄することはできなくなっていたのです。
 しかしどういう場合にそれが渡されるのかというと、書いてある通りですが、恥ずべきことが女性の側に見出された場合です。この恥ずべきことが何を表すのかということで、ファリサイ派の中に二つの考えがあったということが知られています。より厳格な立場をとる人は、「これは姦淫のことを言っている」と解釈しました。それ以外では離縁はできないというのが一番厳格な、そしてはっきりしたファリサイ派の解釈です。しかしファリサイ派の中にもより自由な解釈をする人がいて、その人たちはもっと些細なことでも離縁の理由になると考えました。いずれにしても離縁状が手渡される場合には、この人は何か恥ずべきことをしたのだと書かれたようです。それによって女性は、なぜ自分が離縁されたのかということが分かるようになっていました。逆に言えば、理由もなく夫側の気分や、あるいは別の女性を妻に迎えたいという理由での離縁は認められないというのが離縁状の決まりでした。
 離縁状とはそういうものですが、しかし実際にはどうなったかというと、こういう規定があるために、離縁状を渡しさえすれば男性側が自由に女性を離縁できるかのような風潮が生まれてしまったことも事実なのです。領主ヘロデ・アンティパスの話をすれば、ヘロデは別の女性と結婚したいと思って王妃を離縁しましたから、これは明らかに非難されて然るべきことでしたが、しかし、実際にはこういうことが起こったのでした。

 主イエスはそれに対して、結婚とは元々どういうものなのかということを、創世記の二つの言葉を用いて説き明かされます。
 一つは、創世記1章27節の言葉の引用です。「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」とあります。ここから分かることは、男が女に対して神になるのでも、女が男に対して神あるいは女神になるのでもないということです。元々神は御自身の中に対等な自由な交わりを持っておられ、その交わりを私たち人間の間柄でも持つようにと与えてくださるのです。その最も根本的な交わりが結婚であり、家庭の交わりです。結婚式の時によく、「結婚は愛の学校だ」と教えられます。その愛とは、「神さまがどのように私たちを愛してくださったか」という愛です。その愛をお互い同士の間に持つこと、それは頭の中で観念的に持っているということではなくて、実際の結婚生活、家庭の中で、目の前にいる人と一緒に生きていくという仕方を通して学んでいくのです。
 もう一箇所引用しておられる言葉は、創世記2章24節です。「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」とあります。「二人は一体となる」という言葉の直前には、最初の女性であるエバがアダムの肋骨によって作られたという有名な話が語られます。元々アダムと一つだったエバが、結婚することによって再びアダムと結合して一つとなると教えられているのです。

 今日の箇所10章9節では主イエスがその二つの創世記の言葉を引用した後に、「従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」と結論付けておられます。「結び合わされた」と言われている言葉は、元々の言葉を見ますと二つのものがニカワで貼り合わされて決して剥がれなくなるという字が使われています。「神が結び合わせくださった」、それは紐で結ぶのなら解くことができますが、ニカワで貼り付けられてしまっていれば、もうそれを剥がすことはできないのです。結婚すると、その相手は自分と一つになるのです。もはや相手が一人、自分も一人ということではなくて、二人の人間がお互い同士の欠けを補い合いながら、そこから一つとなって生きていく、そういう不思議な間柄、不思議な結びつきというのが「結婚」という時には起こるのです。欠けのある人間がその欠けを相手に埋めてもらい覆ってもらいながら、お互いに神の慈しみを知らせる者として生きていくのです。主イエスはそういう不思議な生活を神が与えてくださるのだということを、この日、主イエスを陥れようとした問いを逆手に取りながら、群衆に教えられました。
 一つ一つの家庭の上に、神が御自身の名を置いてくださり、助けを与えてくださるのです。

 確かに個々の家庭においては、時に人間の欠けが真に大きいために、あるいは社会状況のために、生活を共にし続けられなくなるという場合も起こり得るかもしれません。そういう具体的なことが起こる場合には、その一つ一つの具体的な場面に主イエス・ キリストが立ってくださって、御自身の十字架と復活を示しながら、御言葉をもって、疲れている人に休息を与え、慰め、力を与えてくださるに違いありません。
 しかし基本的には、夫婦関係というのは、一組の男女のそれぞれの一生を神が結びつけてくださり、二人の人が一つに貼り合わせられ、その中で生きていくようにされるものなのです。一緒に生活する中ではお互いの欠けということに気付かされますけれども、それを覚えながらも、カバーし助け合って、そして一緒の人生が営まれて行きます。
 そういう生活の中で私たちは、「人は決して一人だけで完結しているのではなく、欠けを持っているけれど、しかしその欠けや破れを持っていても、愛され慈しまれ、そしてまた、自分自身も愛を返して生きていくのだ」ということを学ばされるのです。

 交わりの中に置かれ、支えられ、生かされているということを感謝しながら、私たちはまた、周囲の方々に仕えて生きていく、そのようなあり方を学ぶ者とされたいと願います。お祈りをささげましょう。
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